加納(岐阜)和傘の広場 [ by Kenichi Fujisawa ]


加納の和傘 昔と今 藤沢健一 (中山道 加納宿 第68号へ寄稿)   無断転記・使用を禁じます。

 日本人は竹と和紙を使用した色々な民具を育ててきました。扇子・提灯そして和傘。どれも竹の骨組みと和紙の融合により作り出される優美な民具ばかりです。これのルーツは、どれも中国なのでしょうが、ごく自然に日本的美意識による改良が繰り返された結果、原産地の品々とはひと味ちがう姿に成長したのだと思われます。
 和傘のことを、から傘(唐傘)と呼ぶ人もあります。唐傘は中国の傘の意ではなく、開け閉めが自由にできるカラクリ細工の傘の略称だとも言われます。平安絵巻に見られる傘(蓋)は貴人に差しかける開いたままの傘で閉じることが出来なかったのですが、それが進化して現在の複雑な構造が出来上がったもので、往時のひとびとが「カラクリ」と思ったのも不思議ではありません。現実に現存する竹製品のうち和傘の骨組みのように複雑なものは他に見出すことは出来ません。その仕組みだけでなく傘を閉じた時の美しさを追求し続けた先人の努力には頭が下がります。洋傘と比べて骨の数が数倍の四十本~五十本もあり、そのうえ張った紙を内側に畳み込むのです。そして閉じた傘の形を最初に割った竹の姿に戻すように最新の注意を払います。出来上がったかさは竹林のなかに育っている真竹のように滑らかで、気品ある姿が理想とされてきました。

<美濃和傘の歴史>
 岐阜市の加納地区は全国でただ一か所の現存する蛇の目傘の産地です。江戸時代から京都や江戸で美濃傘と呼ばれて、その優美さを珍重されてきた伝統の傘は、この土地で作られてきました。現在では数軒の製造業者と数十人の職人たちが僅かに伝統を守り続けています。加納の地は、広重の版画にも見られるように中山道の宿場所として江戸初期より開けた所です。徳川家康はこの地の交通上の重要性に着目し、長女亀姫の夫奥平信昌をこの地に封じ十万石を与えて加納城主としました。宿場町の傘屋ではなく地場の産業としての傘業が加納の地に育ってきたのは宝暦年代(1760年頃)以降、当時の藩主永井氏は禄高僅かに三万二千石で、十万石の城を維持するのは容易なことでなかったと想像できます。財政が窮乏し藩主は年貢米の不足を補うために、現在風で言うサイドビジネスとして和傘を利用したことが古い記録から窺い知れます。武士と町民の分業作業に発展していった傘業は分業ゆえに各々の作業に精通し技術の向上も著しく美濃傘としての名声も確立して行ったのです。加納藩主永井氏は藩札として「傘一本札」「傘二本札」「轆轤(ロクロ)二個札」などを発行して貨幣と同様に流通させたのですが、これは当時傘業が盛んであったこと、そして藩主がこの仕事を保護奨励して財政の助けとしたことの証にほかなりません。明治時代まで山本傘として名を残した、細くて美しい傘を考案したのは山本紋兵衛という武士でした(1835年没)。
 最盛期(昭和25年頃)には一万六千人の人達が従事し、年間千四百万ものかさを生産した加納の傘業も急激な生活様式の変化により衰微し、現在では存亡の危機に直面しています。

<美濃傘の作り方>
 前述しましたように美濃の傘は十数人の職人による分業で作られます。

    分業名     作業の種類                    職名

    骨削り  :真竹を割って細骨を作る               :骨師
    ロクロ作り:エゴの木でロクロを作る               :轆轤師
    繰込み  :細竹に留具を付けロクロを入れる           :繰込屋
    繋ぎ   :繰込みに竹骨を糸で繋ぐ               :繋ぎ屋
    紙張り  :繋ぎ(骨組み)に和紙を張る             :張師
    仕揚げ  :紙に油を引き天日で乾燥後、傘を閉じた表面に漆を塗る :仕揚師

 この他に小骨削り、骨そろえ、横もみ(穴あけ)、骨染め、ためかけ(竹骨を火で炙りカーブをつける)、紙染め、紙選り、模様継ぎ、飾り糸かけ、付属品付け、などいくつもの細かい分業になっています。そしてこの人たちの技術が総合されて一本の傘が出来るのですが、原材料の良否は勿論、すべての職人の息が合わないとすぐれた傘は出来ません。製造業者(問屋)は原材料を吟味・選択し、全部の分業を指揮、統率する役目です。優れた業者のもとですばらしい作品が出来るのですが、これはオーケストラと指揮者の関係と同じだとも思います。
 骨師は自然にはえていた竹を再現するために、後から張られる紙が骨と骨の間に入っても傘を閉じた形が以前の竹の状態に戻ることを計算して竹骨を作ります。削った骨は源竹の時に付けた印に従って元の順序に並べ直して一本分の傘骨ができ上がります。骨組みは良い傘を作る基盤になるのですから最も重要な作業です。
 張師も骨師と同様に高度な技術を要求されます。傘の骨は中心にゆくほど間隔が狭くなり紙を張るだけでなく、洋傘とは逆に内側に紙を畳み込まねばなりません。傘を閉じた時に紙が皺にならず、そのうえ美しい円筒形に閉じた姿を作らねばならないのです。油を塗る前の傘を「白張」と呼ぶのですが腕の良い骨師と張師の手で出来上がった「白張」は精密機械で作られたかと見紛うばかりで、油を塗り漆を掛けるのが惜しくなるほどです。
 仕揚げ師は化粧師の役目です。白張に油を塗り天日で乾燥させます。完全に乾燥すると傘を閉じた表面に漆を塗ります。細く並んだ骨の上に漆を塗るときこそ腕の見せ所です。骨と骨の間に漆が入り込まないように漆を塗るのには年期と細心の注意が必要です。

<美濃傘の現状>
 江戸時代から加納の地は蛇の目傘を主要商品としていましたが、雨具としての需要が激減した現在では雨具だけでは生産を維持できず、需要の動向に従って技術の許す限り、全ての和傘を作っています。その種類は雨具としての傘に始まり、野点傘・民謡傘・舞踊傘・祭事用和傘・装飾用和傘等々、多岐に亙っています。その中には日本を代表する伝統芸能に使用されるものもあり、各地方の伝統行事用和傘の修復もあり、日本の伝統文化を維持するための使命感が業者の支えとなっています。
 どんな伝統的商品も同じだと思いますが、もっとも困難なことは後継者の育成です。特に和傘の場合、専門的分業が多く、分業の種類毎に後継者を作ることは育成費用の問題を含めて考えると、採算面から絶望的になります。
 一般的な商品は外国での生産が可能ですが、「本物の傘」は日本人が日本の地で作らねばならないと思い、日本の傘文化を護るためにどんな方法があるのかを模索しています。

                       
平成28年10月1日発行 第68号 中山道 加納宿への投稿文


 

『岐阜の和傘展』で、日本初の和傘のモビールを飾りました。
ゆっくりと、摩訶不思議に回転するモビールは好評でした。

岐阜市で一番背の高いビル『岐阜シティータワー43』のマージ&ジフーズさん(1F)の企画展が開催されました。
4階までの吹き抜けがあるので、思い切って念願の和傘モビールを飾りました。
飾り付けには、4時間もの時間を要しました。ちょっと破れてしまった傘もありますが・・・。